理想の町おこし、ノルテ・ハポンと硫黄島地区会の団体活動に学ぶ

今、日本の多くの地方都市では人口減少、少子高齢化といったコミュニティーの沈滞・消失が課題として山積している。大型ショッピングセンターができ、買い物や生活が便利になった一方で、消費活動の均一化が進み、もともとあったはずの町の特質が失われることが危惧されている。そんな中で地域がすべき活動とはどういったことなのだろうか。

日本と海外の人々を結びつける活動を行う団体に与えられる『国際交流基金地球市民賞』は、今年度の受賞団体を含めると合計100団体となる歴史あるアワードだ。今回、地球市民賞を受賞した団体から、福島県川俣町で中南米音楽フェスティバルを長年開催するノルテ・ハポンと、ギニアの伝統的な太鼓ジャンベを通して諸外国の音楽家たちと交流する硫黄島地区会を招き、それぞれの活動と展望について話を伺う機会を得た。それぞれ数十年にわたって活動してきた2つの団体は、地域と文化の関係をどのように考え、そして育んできたのだろうか?

「町おこしの成功例ですね」なんて言われることも多いのですが、そもそもは同好の仲間たちの純粋な想いでずっと続いてきたんです。(齋藤)

―それぞれの団体が立ち上がった経緯からお聞きしたいと思います。最初は、福島県川俣町で毎年行われている中南米音楽祭『コスキン・エン・ハポン』からお伺いできればと思いますが、コスキンというのはアルゼンチンの街の名前だそうですね。

齋藤:コスキンは世界的なフォルクローレ(ラテンアメリカの民族音楽)の音楽祭を毎年開催している、標高700mの高地にある街です。川俣町は阿武隈高地の丘陵部に位置していて、コスキン市と似た特徴が多くあります。それにちなんで、フェスティバルの名前を『コスキン・エン・ハポン』、つまり「日本のコスキン市」にしたんです。また、主催団体名の「ノルテ・ハポン(北日本中南米音楽連盟)」は「北日本」という意味ですね。

左から:硫黄島地区会の安永孝、徳田健一郎、ノルテ・ハポン事務局の齋藤寛幸、若林美津子
左から:硫黄島地区会の安永孝、徳田健一郎、ノルテ・ハポン事務局の齋藤寛幸、若林美津子

―フォルクローレとは、どんな音楽なのでしょう? 語源はフォークロア(民俗学的な伝承)ですね。

齋藤:いろんな楽器、いろんな歌唱法・奏法がありますが、日本でいちばん有名なのはケーナ(南米ペルー、ボリビアなどが発祥の縦笛)という楽器でしょう。30cm程度の小ぶりの縦笛で“コンドルは飛んで行く”は代表的な一曲です。

齋藤寛幸(ノルテ・ハポン)

―よく、ストリートで南米系のミュージシャンが演奏していますね。

齋藤:まさにそれです。フォルクローレは都会ではなく山あいの村々の音楽で、川俣町の風土にとても似合うんです。今から42年前に町に住んでいた長沼康光さんという方が、ケーナ奏者の東出五国さんと出会って始まりました。

団体ノルテ・ハポン創始者の長沼さんは大の音楽愛好家で、南米音楽にも造詣が深い人でした。特にアルゼンチンタンゴが好きで、自主的にレコード鑑賞会を開いたりもしていた。その活動がとある雑誌に取り上げられて、たまたまそれを目にした東出さんが「今からケーナという楽器で演奏をするので聴いてください」と電話をかけてきたそうです。

『コスキン・エン・ハポン 2005』公演風景
『コスキン・エン・ハポン 2005』公演風景

―その電話一本から音楽祭『コスキン・エン・ハポン』は始まったんですか?

齋藤:ええ。電話口から聴こえる音楽に長沼さんは一瞬で魅せられて、その2年後に最初の音楽祭を開催しました。けど、最初のうちは怪しい集まりだと思われて本当に大変だったんですよ(笑)。

なにしろ地球の反対側の聴いたこともない音色の音楽で、奏者も民族衣装を纏って町なかを歩いているわけですから。教育委員会からは「不良の音楽! 子供たちを近づけないように!」と注意されたこともありましたね。

左から:齋藤寛幸(ノルテ・ハポン)、若林美津子(ノルテ・ハポン)

―ロックやメタルのような扱いですね(笑)。

齋藤:それが徐々に活動の輪が広がっていって、県外からも大勢の観客がやって来るようになり、そこから一気に周囲の見方が変わりました。プロモーションに町役場も全面協力するようになり、教育委員会は突然「いい音楽だ!」と言うようになって(笑)、川俣市内の小学校の授業でケーナを教えることになりました。

だから川俣町の小学生は、リコーダーではなくケーナを吹いて登下校するんですよ(笑)。その様子が全国的に知られるようになり、「ケーナの音が響く町」と呼ばれるまでになった。

『コスキン・エン・ハポン 2016』公演風景
『コスキン・エン・ハポン 2016』公演風景

―状況の逆転がすごいですね。

齋藤:他の街の人たちからは「町おこしの成功例ですね」なんて言われることも多いのですが、そもそも町ぐるみで始めたものではなくて、同好の仲間たちの純粋な想いでずっと続いてきたんです。

2000年には本場コスキン市の国際音楽祭に参加するようになり、逆に川俣町で演奏したいというアルゼンチンの奏者も増えてきた。そうやって市民の活動が広がって、2つの国、2つの町を結んでいったんです。

徳田:硫黄島と三島村にジャンベが広まっていった経緯と要所要所が似てますね。

ジャンベに打ち込んだ経験が大きな自信になって、三島出身を誇りにすることができる、そういう子を育てたい。(徳田)

―硫黄島地区会の転機はどういった経緯からだったのでしょうか?

安永:三島村(竹島、硫黄島、黒島からなる村)にはじめてジャンベがやって来たのは23年前、「ジャンベの神様」と敬愛される世界的奏者のママディ・ケイタさんが硫黄島を訪ねたのがきっかけです。当時ママディさんは日本の子供たちにジャンベを伝えるという日本のテレビ局の企画に参加していたんです。

そこで出会ったのが三島村でした。ママディさんは自分の故郷と同じような環境で生まれ育った子供たちにジャンベを伝えたいと考えていました。硫黄島を訪れて、学校の校庭の真ん中にある大きなガジュマルの木を見つけて、その下を学びの場にしよう、と決めたんです。

みしまジャンベスクールでの練習風景(2016年)
みしまジャンベスクールでの練習風景(2016年)

安永孝(硫黄島地区会)

徳田:ママディさんによると「木の霊が宿っているところで教えれば、子供たちは必ず上達する」と。

安永:小中学校合わせてわずか20人足らずの、クラブ活動もない学校でしたので、当時の村長はママディさんの申し出を喜んで受け入れました。そのワークショップの様子は、ドキュメンタリー番組として放送されたのですが、ママディさんは硫黄島をたいへん気に入ってくださって、その後も毎年指導に来てくれるようになりました。

左から:安永孝(硫黄島地区会)、徳田健一郎(硫黄島地区会)

―個人的な活動としてですか?

安永:ええ。そのうちに子供だけでなく父兄もサークルを結成し、台湾や中国からアジアの若い音楽家たちがジャンベを学ぶために島にやって来るようになりました。

徳田:鹿児島県内の中学校音楽コンクールでは、部員わずか7、8人の三島中学校のサークルが連続12年間ずっと金賞を獲り続けていますし、島内で行事がある際には、最初と最後は必ずジャンベの演奏で締める。週に4便ある定期船も必ずジャンベでお迎えとお見送りをします。

徳田健一郎(硫黄島地区会)

硫黄島港を出航するフェリーをジャンベ演奏で見送る(2016年)
硫黄島港を出航するフェリーをジャンベ演奏で見送る(2016年)

―本当にジャンベづくしなんですね。

徳田:川俣町がケーナの町になる経緯と似ていると思います。私も三島村の出身で、たまたま最初のワークショップのスタッフをしていたのが縁でジャンベ奏者になったんです。

ママディの教え方は押し付けがましいものではまったくなくて、自分たちが生まれ育った場所を愛し、大切にすることを重視しています。島を出て都会で暮らしていると、街の大きさや人の多さにコンプレックスを覚えることもあると思います。

そんな時に、ジャンベに打ち込んだ経験が、大きな自信になって「三島出身でよかった!」と、出身地を誇りにすることができるような、そういう子を育てたくて、みしまジャンベスクールを開校しました。ですから私たちも、町おこしのためにやっているなんて気持ちはまったくないんです。

ジャンベと触れ合い始めると、みんな毎日学校に来るようになる。たった一つの太鼓にそんな力があるなんてびっくりするでしょう?(安永)

―現在、多くの地方都市で人口減少、少子化といったコミュニティーの沈滞・消失が問題になっています。硫黄島と川俣町、それぞれの状況はいかがでしょうか?

安永:硫黄島は島民120人足らずの島ですから、現実はとても厳しいです。若い人がいないので子供が少なく、学校自体の存続も難しくなっています。その一つの打開策として里親制度を実施していて、いじめなどの問題で都会の学校に通えなかった子たちを迎えていますが、そこでもジャンベの可能性を感じることが多くあります。

私自身も里親をやっていて、いじめられた子、逆にいじめる側だった子、引きこもりだった子を大勢見てきましたが、ジャンベと触れ合い始めると、みんな休まずに毎日学校にやって来るようになる。たった一つの太鼓にそんな力があるなんてびっくりするでしょう?

安永孝(硫黄島地区会)

徳田:最初にママディさんが示した大きな視野が生きているのだと思います。ジャンベが奏でる音楽が相手にしているのは、人だけではなく、木の精霊、そこに吹きつける風、虫や鳥、そして太陽や星。つまり宇宙すべてを聴衆として捉えているんですね。そういう純粋で広大な感覚が、言葉や場所、人と人のわだかまりをほぐし、不和を超えていけるのだと思います。

毎年8月に開催されるジャンベインターナショナル・ワークショップ(2014年)
毎年8月に開催されるジャンベインターナショナル・ワークショップ(2014年)

―川俣町の状況はいかがですか?

齋藤:福島県川俣町は2011年の原子力発電所の爆発で避難地域になり、今年3月まで立入制限区域に指定されていました。事故以来、若い人がどんどん町外に出て行き、子供たちの数も目に見えて少なくなっている。町内の去年の新生児はわずか58人で、6つある小学校もいずれは1つに統合されるかもしれません。

だからこそ、子供たちは宝物です。社会の大きな三角形を支える底辺が子供たちで、その数が広いほど、三角形は大きく強くなる。問題を解決する方法はいまだに見えないですが、できるならばケーナを通じて子供たちに活力を与えていきたいと私は考えています。

齋藤寛幸(ノルテ・ハポン)

『コスキン・エン・ハポン』の前祭りとしてパレードも行われるようになった

『コスキン・エン・ハポン』の前祭りとしてパレードも行われるようになった
『コスキン・エン・ハポン』の前祭りとしてパレードも行われるようになった

安永:硫黄島内には高校がないので、15歳の春になると子供たちはみんな島を離れることになります。ですからジャンベを直接伝えることができるのは中学校を卒業するまで。でも、そこで音楽の楽しさを感じた子は島外の高校で同好会を作って、自主的にジャンベを続けているんです。住民数の限られる島の中だけでは、音楽の継承もコミュニティーの維持も難しいけれど、島の外に後継者を作っていくこともできる。

徳田:それと「ジャンベ留学生」という制度があります。若い音楽家たちにジャンベを教えるかわりに、一定期間、島に暮らしてもらって、地区会の仕事をサポートしてもらっています。そうやって島に外の人を招き入れる。

留学期間が終わればその人たちはまた外に行くけれど、他の町でジャンベを教えたり、三島村のことを話題にしたりする。そうすることで全国的に村とジャンベが知られるようになり、音楽や島に興味を持った人が訪ねてくれる。そうやって人の循環を作ろうとしています。

徳田健一郎(硫黄島地区会))

安永:三島村はママディさんの故郷のギニアでも有名なんですよ。日本という国は知らなくても、三島村は知っている人が大勢いる。

齋藤:うちも一緒ですね。アルゼンチンのコスキン市に行くと、「日本では東京と川俣町を知っているよ」という人にたくさん出会います(笑)。

文化って簡単にはできない。長期間の積み重ねがあり、内外の人たちに活動が認められて、文化になったという実感が持てる。(齋藤)

―授賞式のスピーチで齋藤さんは「Think Globally, Act Locally」がキーワードだとおっしゃっていましたね。

齋藤:文化って簡単にはできないと思うんです。長期間の積み重ねがあり、内外の人たちに活動が認められて、「これはうちの文化になった」という実感が持てる。その実感は都会で人気が出たとか、商売として成り立ったという尺度で得られるものではありません。

以前、音楽祭『コスキン・エン・ハポン』を川俣町の外で開催しないか、という申し出があったことがあります。開催規模も大きくできるし、観光客の泊まれる宿泊施設もたくさん用意できる。これは音楽祭を興行として成功させよう、という発想ですよね。

でも、それまで民族音楽フォルクローレを愛して応援してくれた人たちは、川俣町の風景やそこで出会った人たちとの再会も楽しみにしているんです。大都市でイベント化すれば、その一時は成果を得られても、そこに感動は生まれないんですよ。

左から:徳田健一郎(硫黄島地区会)、齋藤寛幸(ノルテ・ハポン)

徳田:ママディさんも「すべての文化は都市ではなく、小さな村から始まったんだ」と言っていますが、彼が三島村を学びの場に選んだのも、「Think Globally, Act Locally」と同じ発想だと思います。

―規模感の小ささがよかったのかもしれませんね。郊外型の大型ショッピングセンターができて、買い物や生活が便利になった地方都市は多くありますが、その一方で消費活動が均一化していくと、街の持っていた特質は失われてしまう。そこで例えば、ジャンベを叩く、ケーナを吹くことによって、それぞれの町や島の記憶が体験として戻ってくる。それが継承のための大事な要素になっているのではないでしょうか。

齋藤:世の中は便利になっていますが、均一的な便利さではなく、ちょっと変わったものであってもその場所、その人にしかない特質を必要とする人はいる。つまり価値観の尺度は一つではないんです。

徳田:あえて私の方からは逆の問いかけもしてみたいです。私はミュージシャンなので、島の外に出て活動することが多くあります。今回の授賞式でも、その数日前に前乗りして、埼玉とか渋谷でワークショップを行いました。

そこでジャンベや硫黄島に興味を持っている人と出会い、一緒に演奏していると、その場所が一瞬で島の空気感に変わるんです。先ほどの、外に後継者を作っていくというのと同じ発想で、場も外に作っていくことができると思っている。自分の意志で、積極的に外に出て行くことも今後の大事な活動の一つかな、と思います。

アワード情報
国際交流基金地球市民賞

1985年、全国各地で国際文化交流活動を通じて、日本と海外の市民同士の結びつきや連携を深め、互いの知恵やアイディア、情報を交換し、ともに考える団体を支援する賞として創設されました。最初の名称は「国際交流基金地域交流振興賞」、2004年には「国際交流基金地域交流賞」、2005年からは「国際交流基金地球市民賞」に改称し、現在に至っています。

プロフィール
ノルテ・ハポン

アルゼンチン・コスキン市で行われている、世界的な「フォルクローレ」音楽祭にちなみ、1975年に日本のコスキンという意味の中南米音楽祭「コスキン・エン・ハポン」が、全国から愛好家を福島県川俣町に集めて始まりました。現在では1万人を集める国内最大級の「フォルクローレ」イベントに成長、3日間にわたり全国180のグループが夜通し演奏します。国内はもとより、遠くはアルゼンチン、ボリビア、ペルーからプロのミュージシャンも参加します。音楽祭初日は、川俣町内の子供からお年寄りまで約1,300人が、参加者達をパレードで歓迎します。

硫黄島地区会 (いおうじまちくかい)

鹿児島県硫黄島とギニアの太鼓ジャンベの出会いは1994年、「ジャンベの神様」ママディ・ケイタ氏が来日した際、小さな村でこどもたちと交流したいと希望、村が受け入れたときにはじまります。以降毎年のようにケイタ氏が来訪し指導を続ける一方、硫黄島のこどもたちがケイタ氏の故郷ギニアを訪問、また2000年にはケイタ氏と「みしまっ子」が共同でドイツ公演を果たすなど、ジャンベを通じた国際交流が活発に続けられています。2004年にはアジア初のジャンベスクールが開設され、県内外からジャンベ留学生も受け入れています。



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