何かを探して流転する音楽家 波多野敦子(triola)インタビュー

異才の持ち主と言っていいだろう。石橋英子やジム・オルークのバンドメンバーとしても注目を集めるバイオリニスト、波多野敦子。これまでEGO-WRAPPIN’やmama!milkなどの作品にも参加する一方、ピアノやチェロなども演奏し前衛的な音楽家としても活躍してきた彼女が、弦楽歌モノユニットtriolaとして『Unstring, string』を完成。wondergroundと益子樹(ROVO、Dub Squad)が設立した新レーベル「Bright Yellow Bright Orange」からリリースされる。

バイオリン、ビオラ、ピアノなどアコースティック楽器の優しい響きと柔らかな歌声からなるジェントルなポップソングを収録した本作。一方、昨年12月にリリースしたソロアルバム『MARIA』ではニューエイジや現代音楽のフィールドに近い緊迫感ある音楽を繰り広げている。さらに、ライブではお客さん1人に深く話を訊きながら即興で「その人をスケッチした曲」を譜面に書き演奏する「サウンド・ポートレイト」というパフォーマンスも披露している。

多彩な才能を持つ波多野敦子という人は、どうやって形作られてきたのか。数奇な出会いと縁に導かれてきたそのライフストーリーを紐解いてゆく。

一度は辞めてしまったバイオリンを再び手にした意外な理由

バイオリンという楽器に「英才教育」のイメージを抱く人は多いのではないだろうか。ギターやベースなどポピュラーミュージックの楽器と違い、バイオリン奏者はきっと幼い頃からレッスンを受け、クラシックの素養を身につけてきた人なのだろう、と。しかし、波多野敦子という音楽家は、そんなイメージを覆す奔放な経歴の持ち主。バイオリンのレッスンを始めたのは3歳の頃。英才教育は、思春期を前に、早々に挫折した。楽器をベッドの下に仕舞い込み、高校の頃はドラマーとしてバンド活動をしていたという。型にハマらない波多野敦子の音楽人生は、そんな風にスタートしている。

波多野:2歳半の頃、自分から母親にバイオリンをやりたいって言ったらしいんです。何の記憶もないですけれどね。親にはよくクラシックのコンサートに連れていってもらってました。で、3歳で習い始めてからは、やればやるほど上達していった。それで、親が期待してしまったんでしょうね。どんどんスパルタになっていって、それが嫌で嫌で仕方なかったんです。ピアノも習っていたんですけど、それも含めて、結局小学校6年生の時に習い事は全部辞めちゃいました。期待されるのがプレッシャーだったんです。

波多野敦子
波多野敦子

―ずっとバイオリンを引き続けてきたわけではないんですね。

波多野:それから大学に入るまで、バイオリンは一切触ってないんですよ。中学では吹奏楽部でパーカッションをやっていたんで、高校に入ったらドラムを叩くようになって。コピーバンドをやるようになりました。Van Halenとか、王道のロックをやってましたね(笑)。高3の頃はモッズ好きの先輩とバンドをやっていたので、Small FacesとかThe Zombiesの曲をやってました。

クラシックの英才教育を受けたはずの彼女は、あっという間にクラブやライブハウスのシーンにのめり込んでいく。再びバイオリンを手にとるようになったのも、実は「遊びすぎた」のが理由だったようだ。

波多野:15〜16歳の頃は毎週クラブに通ってました。スカとレゲエが好きだったんですよ。いろんなライブを観にいくようになって。そこから学校以外の友達も増えたし、年上の人たちと遊ぶようにもなった。家にこもって音楽を聴くより、現場で楽しんだり踊ったりするほうが大好きでした。情報をインプットするよりも、とにかく身体を動かすのが楽しいという。現場ばっかりでしたね。で、そんなことばっかりやっていたので当然成績が落ちて、行こうと思っていた学部に推薦してもらえなくなったんですよ。それで「どうしよう…」って困っていたんですけど、もしかしたらバイオリンでなら音楽科に入れるかもと思って、3ヶ月慌ててレッスンして、なんとか大学に入れることになって。

―じゃあバイオリンを再び弾き出したのは、進学するためだったんですね(笑)

波多野:はい、むちゃくちゃな理由でした(笑)。実は、今のバイオリンの技術は3歳から12歳までに身についたものなんです。それだけなんですよ。母親に感謝ですね(笑)。

音楽にのめり込んでいく、忘れられない出会い

大学に進学した後も、あまり真面目に音楽を学んでいたわけではなかったという彼女。どうやら、技術や理論よりも勘と直感、知識よりも体験を重視するタイプのようだ。オーケストラに参加したことを契機に弦楽器への愛情は増していったが、それもあくまで授業の一貫として留年しない程度に出席していたものだ、という。その代わりに熱中していたのは、やはりバンド活動。大阪のライブハウスシーン、その濃いコミュニティの中で彼女を導く最初の「縁」が生まれる。

波多野:ダイナマイトという大阪のライブハウスに通ってたんですけれど、そこで知り合ったお兄ちゃんに「バイオリン弾けるやんなあ? ちょっと来てや」って言われて。それで大先輩のバンドにエレキバイオリンとして入ったんです。それがCHAP CHIMESというバンドでした。音楽性はThe Stranglersみたいな感じで、ロックの要素もパンクもある、メロディアスな感じの曲が多かったです。私が22歳の頃で、周りが7〜8歳上。メジャーデビュー寸前まで行ったバンドに、何も分かってない若造が突然放り込まれたようなものでした。で、そこでデグルチーニさんや、トウヤマタケオさんや、BOREDOMSのPAをやられているエンジニアの林皇志さんに出会った。音楽を作ることに興味を持つようになったのも、バンドの面白さを知るようになったのも、CHAP CHIMESのおかげですね。

現在はEGO-WRAPPIN'、SAKEROCK、高木正勝などのセッション/ライブメンバーとしても知られるピアニスト、トウヤマタケオ。彼がメンバーとして活動していたのが、関西では知る人ぞ知る存在だったCHAP CHIMESというバンドだった。そこへの加入をきっかけに、波多野敦子は関西のアンダーグラウンドなライブハウスシーンでバイオリニストとして頭角を現していく。バンドの解散後は、ソロ、トリオ、楽団など様々な形態で活動するトウヤマの音楽をサポートするようになっていった。

波多野:2000年頃にCHAP CHIMESが解散して、同時並行的にトウヤマタケオさんがソロを始めていて。私、その頃チェロを買ったんです。トウヤマタケオさんが生のアンサンブルを始めたので、そこでチェロを弾き始めたんですけど、そこでの体験は刺激を受けたし、彼からの影響は大きいですね。彼のクリエイティブも見てきたし、生のアンサンブルだと現場が見えやすいので興味が出てきたんですよね。

―ご自身でバンドを作ろうとは思わなかったんですか?

波多野:バンドをやろうとは思わなかったです。バンドって自分の自由にはならないじゃないですか。そこが当時は嫌いだったんです。その頃、バイクが好きだったんですけど、それはつまり、自分の足で、自分の好きなところに1人で行きたいという気持ちが強かったんですね。そういうのに似ていると思うんですけど、集合体で誰かと一緒に作るのが苦手でした。

慣れ親しんだ場所に息苦しさを感じ、敢えて東京へ移住

2003年には、自主制作盤として初めての作品であるソロアルバム『13の水』を制作した波多野敦子。今までアンサンブルの一員に徹していた彼女が、初めて作った1枚。それも、エンジニアの林皇志との出会いと縁から生まれたものだという。

波多野:『13の水』は、林さんの一言からできた1枚でした。自発的に作ろうと思ったものではないですね。お世話になっている林さんに「そろそろ波多野も作れや」と言われた。そこで初めてちゃんと作品を作ろうと思いました。

―何かテーマみたいなものはあったんですか?

波多野:ダイナミクスがすごく好きで、それをどうやって出そうかを考えていたと思います。でも、結果的に穏やかな作品になりましたね。それから、その頃は心斎橋のタワーレコードで働いていて、そのことも大きな体験でした。ジャズ、クラシック、現代音楽のコーナーにいて、とにかく沢山の音楽を聴いていた。world’s end girlfriendのようなエレクトロニカの人と一緒に仕事をしているのも、それがきっかけになっていると思います。

EGO-WRAPPIN'の森雅樹との出会いも、彼女にとっては大きな転機となった。

波多野:ストリングス・アレンジの仕事を始めるようになったのも、人に頼まれてからですね。それがEGO-WRAPPIN'の森くんだったんです。トウヤマタケオトリオで一緒に福岡に行った時に「今度エゴのアレンジやってよ」って突然言われて。「え? やったことないのに?」って言ったんですけれど、「とりあえず」って。彼の野性的な勘の鋭さが働いたのかもしれないです。それでMDのやり取りを経て、アレンジの初仕事をすることになった。そこで初めて自分の音を他者と共有するために楽譜を書きました。最初の仕事がいきなりEGO-WRAPPIN'だったというのは、改めて考えるとすごいことですね(笑)。

波多野敦子

2007年、彼女は大阪を離れ、東京に拠点を移す。そして、その後はCMの音楽制作を手掛けるなど音楽家としての活動領域を徐々に広げていった。住み慣れた街や、思春期の頃から馴染みの深かったライブハウスやクラブのシーンを離れる決意をしたのは、自分自身がひとつの型にハマってしまうことを恐れたからだった。

波多野:大阪を出る時に悩むことはなかったですね。迷いもなかった。いろいろありましたけど、とりあえず大阪を離れたいという気持ちがありました。大阪のライブハウスのコミュニティに「村」みたいなものを感じて、息苦しくなった時期があって。具体的に何かあったわけじゃないんですけれど、感覚的に狭苦しさを感じるようになったんです。だから、最初は別に東京じゃなくてもよかった。九州に行こうとか、四国に行こうとか、考えてました。でも、最終的には東京で知り合いが増えてきた頃だったんで、東京に行くことにしたんです。きっと、自分が何をしたいのか、どうしたいのかわからなくなって、変化を求めていたんでしょうね。このまま大阪にいると、いろんなことをやらされているだけなんじゃないかという気がしてきた。仕事が増えるけどお金は増えないんじゃないかというジレンマもありました。

自分の中にあった、もうひとつの楽器

2009年にはビオラの手島絵里子とのデュオ形式による弦楽プロジェクト「triola」を始動。さらに2011年にはレーベル「triola」をスタートさせ、1stソロアルバム『13の水』のリマスター盤と、2ndソロアルバム『MARIA』を続けてリリース。徐々に活動が活発になっていく。

波多野:自分の作品を2枚用意した時点で、小規模ながら「triola」レーベルを立ち上げたんです。『MARIA』も半分以上は5〜6年の音源ですからね。

―あまり自発的に作品を作らなかった波多野さんですが、どういった経緯で『MARIA』を作ることになったんですか?

波多野:もともとは大阪の赤レンガ倉庫という会場で、イベントに出演させてもらったのがきっかけだったんです。本番の1日前に会場に入ったら、ピアノがガランとした倉庫に入っていた。そこで、千住宗臣くん(ドラム/パーカッション)とエンジニアの林さんを連れて、何の用意もせずにとりあえず即興で録音したんです。見切り発車で録りはじめたんで、その時点ではリリースする予定も何も決まってなかったです。打ち合わせもせず、現場で全部作った。その後、リリースしてほしくていろいろと動いたんですけれど、結局どこも引っかかってくれないまま6年が経って。悶々としていたし、誰も出してくれないかったので、自分でレーベルを作って『13の水』と一緒に出すことにしました。

そして2009年には、弦楽プロジェクト「triola」を始動する。手島絵里子(ビオラ)とのデュオとなっているが、形式やメンバー編成に縛られずに音楽を奏でるプロジェクトだ。

波多野:最初の出会いは、2003年の『13の水』を作った時に手島さんに手伝ってもらったんです。その時はそれきりだったんですけれど。

―どうして手島さんとやることになったんですか?

波多野:mama!milkさんと交流があるんですけれども、2009年にとある企画に呼ばれた際に1人じゃなく、弦楽で誰かと一緒にやってくれと言われたんです。その時に、手島絵里子さんはどうかな?って思い浮かんで、声をかけたらすぐに来てくれた。そういう、人と一緒にやっていたことの延長線上として始めたのが、今回のtriola。それまでが孤独なソロ活動の期間だったんで、やっぱり、人と一緒に何かをやるのっていいなって思いました。

あくまで弦楽のアンサンブルとして始まったtriolaだが、ライブを続けていく中で、徐々に歌モノへと発展していく。それまで一切ボーカリストとしての意識がなかった彼女の中に、ここに至って歌おうという思いが生まれたのは何故だったのか。

波多野:最初は、とりあえずある曲を弾くという感じの活動でした。でも、やっているうちに、何故か歌を歌うようになっていった。最初は、音数が少ないから、ただ単に和声が欲しいという理由だったんですよ。チェロって、1人で沢山の音を出せないんですけど、もうひとつの音が自分の中に鳴っていて、それを形にできないことがもどかしい。「どうしようかな……」って思ったら、自分の声という、もうひとつの楽器があることに気がついたんです。それで歌いはじめたら、言葉を乗せるというところにも少しずつ興味が出てきて。それでだんだん歌モノを作り始めていた。自分でも不思議ですね。そういう要素をtriolaに盛り込んだという感じです。

「作ってみないと自分がわからない」。新たな出会いによって気がついてしまったこと。

波多野敦子にとって、もうひとつの大きな「縁」が、石橋英子との出会いだ。ジム・オルークと共にバンド「もう死んだ人たち」の一員として活動するようになり、6月20日にリリースされるニューアルバム『imitation of life』にも参加している。そこでの体験は、今まで良くも悪くも他者に導かれるように進んできた彼女にとって、自分自身を根っ子から見直す契機になった。

波多野:石橋英子さんと出会ったのは、彼女の前作の『carapace』のレコーディングですね。バイオリンを探しているというので、人を介して紹介してもらって。初めて会ったのが2010年の夏ですね。その後に対バンで会うこともあったり、年も近いのもあって、初めて会った時からいきなり深い話をした記憶があります。なんだかんだって、この1年でかなり近くなりました。で、そこに「もう死んだ人たち」のメンバーがいたんです。

―ジム・オルークをはじめ、そうそうたるメンバーですよね。

波多野:素晴らしすぎますね。刺激を受けすぎて、逆に愕然とする部分もありました。「ほんとに私、自分のことを知らないわ!」って。彼らは、自分自身のことをすごくよく理解しているんです。でも私は今まで、どこにもベーシックやバックグラウンドがないやり方でやってきた。今までよくそれでやってきたなという気がします(笑)。そうやって、「私は自分のことを知らない」と気付いたのがこの1年でした。自分のことをわかってない。何ができて、何ができないのか、どういうものが得意なのか、そういうことがわかってない。

波多野敦子

現在の波多野敦子がぶつかった悩みは、自分自身から何かを発信するためにはひとつの必然とも言えるものだった。縁と出会いに導かれ「現場」の瞬発力で音楽を生み出してきた彼女が、それに頼らず、自分自身のアイデンティティと深く向きあう。そのことがtriolaとしての音楽表現につながっていった。

波多野:今までは、人に言われて何かをやっているという繰り返しだったんです。ありがたいことに、私のやってることを観てくれている人が何故かいた。センスのいい人に囲まれているんです。でも、ここにきてtriolaを始めたことで、自分から発信しはじめている。そうなると当然、自分と向き合うことになりますよね。

―自分から発信しはじめたことがきっかけとなって、自分を見つめ直すことになったんですね。

波多野:それで、自分に何ができるんだろうって悶々としてしまった…。そんなタイミングで、自分のことをちゃんと理解している、強烈な人たちと出会ったんです。音楽だけじゃなくて、人間性もそう。性癖も、いいところも悪いところも、普通の人ならフタをしてしまいがちな自分のアイデンティティを開放しきってる人たちなんですよね。だからこそ、自分がそういうものを隠しているってこともわかっちゃったんです。この10年間の活動で自分をよく見せてきたということがわかってしまった。そこから、流れは明らかに変わりましたね。人にピックアップされていた自分の長所を、自分で把握していく。自分の最悪なところも知っていく。それが成長になっていく。だからtriolaも作っているんだと思います。作ってみないと自分がわからない。そして、自分自身のことがわかったらきっと音楽はやってないだろうから、死ぬまでそれを続けていくんじゃないかと思います。そういう道のスタート地点にようやく立てた気がします。すごくいい出会いでしたね。

その人のためだけの音楽を作る「オーダーメイドミュージック」

2枚のソロアルバム、triolaとしての『Unstring, string』という作品、そして何より彼女のこれまでのキャリアから、波多野敦子という表現者の「核」にあるものが、だんだん見えてくる。それはひとつのところに決して留まらないという発想だ。決まり事を作らない。ひとつの場所やスタイルにとどまらない。常に、流転していく。そのことが彼女の音楽のアイデンティティにつながっている。

波多野:今は自分を少しでもはっきりさせたいという気持ちですね。少しずつ輪郭がはっきりしてきているんですよ。今までの3枚は、過去なんです。triolaのアルバムをリリースすることで、やっとそれを一括りすることができる。今は3作目のソロの制作に入っています。

―ソロとtriolaは、波多野さんの中でどういった違いがあるのですか?

波多野:triolaは、自分にとって誰かとやる「弦楽のプロジェクト」で、今は手島絵里子(ビオラ)と2人でやっています。逆にソロに関しては、弦楽=バイオリンを弾かないかもしれない。なんでもいいんです。そういう感覚でやっています。この先のビジョンも、確実にありますね。もちろんこういう人生だから、作って3〜5年くらいリリースできないとかあり得るかもしれないけど(笑)。

即興に長けた波多野敦子ならではのスタンスは、新たな試みとしても結実している。それが「サウンド・ポートレイト」というパフォーマンスだ。ライブ会場に来たお客さんをステージに上げて、じっくりとインタビューをしていく。その人自身の話したことをもとに、その場で曲を書く。手書きで譜面を記し、それを即興で演奏する。「出会い」と「現場」を大事にする波多野敦子らしい試みだ。

波多野:ライブの中で15分のコーナーを作って、現場でこれをやっているんです。音楽にしてほしいという人に挙手して出てきていただく。いろんなボールを投げて、話をきいて、その場で曲を書く。印象がハッキリしているところを音楽にするので、相当踏み込んで取材はさせてもらいますね。そうしないとその人の曲にならないし、綺麗なコード進行を鳴らしただけの、ただの曲になってしまう。そうじゃなくて、似顔絵を描くように、目の前の人間をそのまま音楽にするということをやっているんです。

そこから「オーダーメイドミュージック」という試みも生まれている。発注に応じて、1曲1曲、その人のためのたったひとつの音楽(音源)を作るという試みだ。依頼者の声や生活の音を取り込み、大量生産のポップミュージックとは全く逆の発想で作られた音楽を手渡す。

波多野:ライブで曲を作ったお客さんに、「うちの家族にもやってほしい」という依頼を受けた事もあります。男性の方だったんですけれど、奥さんの曲と、娘さんの曲を作ってほしいというオーダーを受けたんです。彼の自宅に伺って、家族それぞれの曲を作って、組曲として納品しました。気に入ってくれたらありがたいと思ってますね。

スペシャルな形で「出会いから生まれる音楽」を作ることができる。それが、波多野敦子という音楽家の持つ「異才」の正体なのかもしれない。

イベント情報
ライブ情報

2012年6月9日(土)
会場:東京都 吉祥寺 Foxhole
出演:倉地久美夫+triola(波多野敦子[Vl]、手島絵里子[Vla])

『渋谷UPLINK亭 vol.3』

2012年6月15日(金)
会場:東京都 渋谷 UPLINK FACTORY
出演:桂春蝶 音楽ゲスト:triola

ワンマンライブ『Resonant#8』

2012年6月28日(木)
会場:東京都 下北沢lete
出演:triola(波多野敦子[Vl,Vo]、手島絵里子[Vla])

『円盤夏祭り』

2012年7月14日(土)
会場:東京都 渋谷O-nest
出演:
倉地久美夫+triola
and more

『Unstring,string』リリースライブ京都

2012年8月10日(金)
会場:京都府 flowing KARASUMA
出演:
triola
mama!milk

『Unstring,string』リリースライブ東京

2012年9月16日(日)
会場:東京都 原宿VACANT
出演:
triola
キセル
倉地久美夫

リリース情報
triola
『Unstring, string』

2012年5月30日発売
価格:2,625円(税込)

1. Seahorse
2. Dogu
3. Close to you
4. 交わらない線
5. 青いトカゲ
6. ねじれる少女
7. 夏のコメット
8. 新世界のタンゴ
9. Parade II

プロフィール
波多野敦子

音楽家、作曲家、ヴァイオリニスト。幼少よりヴァイオリンとピアノを始める。ドラム、エレキヴァイオリン、チェロ、鍵盤等で関西を中心にバンド活動 (トウヤマタケオ・トリオ/楽団、デグルチーニ等)を経て2009年より弦楽プロジェクト《triola》を始動。現在東京を中心にライブパフォーマンス、アルバム制作を行うほか、オーダーメイドミュージック、広告や映像の音楽制作、ストリングスアレンジメント等を手がける。現在は大島輝之(弧回)や石橋英子のバンドにも参加中。



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