あの人の音楽が生まれる部屋

あの人の音楽が生まれる部屋 Vol.22 サイプレス上野とロベルト吉野

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あの人の音楽が生まれる部屋

サイプレス上野とロベルト吉野

ヒップホップをベースにしつつ、様々なジャンルを取り込んだ「現在進行形のサウンド」を聴かせる2人組、サイプレス上野とロベルト吉野(以下、サ上とロ吉)。横浜の外れにある巨大団地「ドリームハイツ」の周りで生まれ育った彼らは、今も地元を拠点にして活動を行っています。今年リリースされた彼らの5枚目のアルバム『コンドル』は、吉野さんの体調不良による活動休止期間(2014年初頭~10月)を経て制作された、まさに「復活の1枚」と言えるもの。ヒップホップの可能性を広げ続け、コアなB-BOYからおじいちゃんおばあちゃんまで楽しめる、強烈なエンターテイメントを繰り広げています。また上野さんは、中江友梨さん(東京女子流)とユニット「サ上と中江」を結成するなど、課外活動にも積極的。今回は、そんな二人のプライベートスタジオがあるドリームハイツへ。「いい意味で、行き当たりばったりの毎日だった」という、これまでの活動を振り返ってもらいました。

テキスト:黒田隆憲 撮影:豊島望

サイプレス上野とロベルト吉野

サイプレス上野とロベルト吉野
(さいぷれすうえのとろべるとよしの)

マイクロフォン担当:サイプレス上野、ターンテーブル担当:ロベルト吉野。通称『サ上とロ吉』。2000年にあらゆる意味で横浜のハズレ地区である『横浜ドリームランド』出身の先輩と後輩で結成。「HIP HOPミーツallグッド何か」を座右の銘に掲げ、「決してHIPHOPを薄めないエンターテイメント」と称されるライブパフォーマンスを武器に毎年多くのライブを行っている。2007年に1stアルバム「ドリーム」を発表。以降、多岐にわたる活動によって、ジャンル、世代を問わず様々な現場から支持を受けている。

http://サイプレス上野とロベルト吉野.com/

小学生の頃から互いを知る二人
「スケボー」がきっかけで広がっていった世界

サイプレス上野とロベルト吉野の機材

1960年代の半ば、横浜市戸塚区にオープンした「横浜ドリームランド」。当時は大いに人気を博し、街の活性化にも一役買ったこの遊園地は、かれこれ10年以上前に閉鎖してしまいました。かつての面影といえば、「ドリーム」と名の付くお店や建物が今も周辺に立ち並ぶくらい。サ上とロ吉が、自分たちの活動拠点として購入したこのプライベートスタジオがあるのも、「ドリームハイツ」という名の集合住宅です。

サイプレス上野(以下、上野):俺たちが生まれたときには、すでにドリームハイツはありましたね。生まれも育ちもここです。吉野は俺の1コ下の後輩。小学生の頃から知ってますが、当時は別に仲が良かったわけでもなく、互いの存在を意識するようになったのは、二人ともスケボーをやり始めてからですね。

ロベルト吉野(以下、吉野):スケボーをやってると、溜まり場が一緒になるんですよ。球場(横浜薬大スタジアム)の奥にでっかい駐車場があって、そこでみんなで練習してました。

上野:最初は別に仲良くなくて、陣地争いみたいなこともしてたんですけど、日が暮れて暗くなってくると少しずつ外灯の近くに集まってきて。「う、うっす」って気まずくあいさつを交わす、みたいな(笑)。そんな関係でした。

当時は空前のスケボーブームがドリームランドを駆け巡り、近所の子どもたちはほぼ全員が「スケーター」。二人が音楽やファッションに目覚めたのも、スケボーのことを知るために手に取った雑誌や映像がきっかけでした。戸塚駅の近くに「西海岸のカルチャーに通じた、イケてる店がある」と聞けば、そこまで自転車をこぎ、値札を見て諦めて退散する日々。NBA全盛期のバスケットボールも、テレビで放送されていた『ダンス甲子園』も、すべてひっくるめた熱いストリートカルチャーにうなされていました。

上野:と言いつつ、最初の音楽体験はJ-POPでしたね。サザンオールスターズや小田和正、T-BOLAN、WANDSなどを聴いてました。ラップを聴き始めるようになると、「J-POPを聴いてるヤツらはだせぇ」とか言い出すんですけどね(笑)。あの頃のB-BOYは「カラオケなんてだせぇ」っていう雰囲気があったから、たまに行ってもフリースタイルとかして、誰かがマイクを握ってても俺はのらないみたいな、すごく嫌なヤツを演じてました。でも、「サザン歌いてぇ!」っていう魔力には抗えなかった(笑)。結局今も歌モノが好きなのは、その頃の影響かもしれないですね。

木の枝をくわえて歩く?
「新しいことを誰よりも早くやりたかった」

サイプレス上野(サイプレス上野とロベルト吉野)

上野さんが、本格的にヒップホップに目覚めたのは中学校に入ってから。スチャダラパーがメジャーシーンで暴れ始め、“DA.YO.NE”(EAST END×YURI)が空前の大ヒットをしていた頃です。中でも上野さんを夢中にさせたのは、キミドリでした。

上野:スケボーの雑誌を読むと、「キミドリっていう町田出身のヒップホップホップユニットがいるらしい」と。ストリートカルチャーと結びついていることもかっこ良くて、気づけばつるんでた仲間たちとヒップホップを始めてました。そのときはまだタンテ(ターンテーブル)とかもなくて、友達とオーディオのレコードプレーヤーを持ち寄って、インストのレコードをかけながらラップするくらいだったんですけどね。しかも、ラップと言っても、そのときに思ってたくだらないことをぶちまけてただけです(笑)。

バンドをやろうとは1度も思わなかったという上野さん。とにかく、楽器が弾けなかろうが、今すぐ始められるのがヒップホップ。そんなDIY精神に魅力を感じた彼は、見よう見まねで始めたフリースタイルラップを、近所の公園で仲間たちと夜な夜な披露し合うように。遊びの延長だったつもりのヒップホップにはまっていくのも時間の問題でした。

吉野:その頃はまだ、上野くんと直接は関わっていなくて。ただ、「変な連中が1コ上にいる」っていう噂は俺の周りでも飛び交ってました。確かに、その頃の彼らは「異様」でしたね。全員が木の枝をくわえながら、イスラムキャップを被って近所を練り歩いてるんですよ(笑)。

上野:木の枝をくわえるのが流行ってたんですよ。海外では歯を磨くのに使うものだと知って、B-BOYショップとかにも売ってたけど、買うのは面倒くさいから「その辺に落ちてる枝でいいや」って(笑)。しまいには歯ブラシの柄をへし折って、それをくわえたりしてました(笑)。とにかく、何か新しいものを誰よりも早くやりたかったんですよね。B-BOY同士のバチバチ感はハンパなくて、「俺の方がかっこいい」「こっちは歯ブラシくわえてんだぜ、こんなヤツいねぇだろ」って主張したかったんです。「普通じゃダメだ」っていうDEV LARGEさん(ヒップホップアーティスト。2015年5月に逝去)の教えもあったから、ステッカーをベタベタ貼った1,000円くらいのラジカセを担いで、電車の中でも鳴らしたり……今考えるとただのクソガキですけど、当時は真剣でした。

ロベルト吉野にとって、唯一残った「DJ」の道

ロベルト吉野(サイプレス上野とロベルト吉野)

そのうち、上野さんはDJセット一式を手に入れた仲間の家に入り浸って本格的にトラック作りを始めます。クラブで知り合った仲間や先輩のテクニックを横目で盗み、ひたすら試行錯誤を繰り返す日々を送っていました。

上野:最初は遊び仲間の4人で「ドリームラップス」というグループを作ってました。次第にクラブとかパーティーに出演するようになって、いい感じで回り始めましたね。「変なヤツらだな」っていう空気は伝わってたのかな。

吉野:俺は高校生の頃に、メタル経由でヒップホップにはまって。今も一緒にトラックを作っているDJのBEAT武士と当時からグループを組んでたんですけど、その頃はまだスケボーにも夢中だったし、ギターもやってたし……これからどうしていったらいいのかを探ってるようなモラトリアム状態でした。結局、スケボーも実にならないし、ギターも修羅の道だし。最終的にDJだけが残ったというか。

上野:その頃からですね、イベントとかで吉野とよく絡むようになったのは。とにかく、吉野の作ってくるミックステープがすごく良くて驚いたんですよ。「お前、うまいな!」って。2001年のドリームラップスの解散ライブにも、吉野にDJとして出てもらったもんな。

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